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權寧畢(권영필・クォンヨンピル)教授「文化マルスク主義の始まり」

Author
fujio kim
Date
2021-03-30 21:22
Views
280


時:2021年3月
場:ネオマルキシズム講義
所:山口聖殿

權寧畢(권영필・クォンヨンピル)会長:
(清州(チョンジュ)聖殿会長)

皆さん、今日(こんにち)は。世界平和統一聖殿の權寧畢(권영필・クォンヨンピル)です。今日は文化マルクス主義の攻撃という題でお話ししようと思います。

文化マルクス主義という言葉は聞きなれない言葉だと思います。けれども伝統的マルクス主義、すなわちマルクス レーニン主義の限界を克服するために新しく提示された理論です。それで、今日(きょう)は「文化マルクス主義の攻撃」という内容で皆さんに話しします。

カール マルクスは労働者達の階級闘争を通じて、血の革命を通じて資本主義社会を打倒して、労働者の理想社会を建設しようという目的を持っていました。

それで彼らはこの資本主義社会において、個人と企業が全ての生産手段を独占し、労働者達の労働力を搾取(さくしゅ)しているとしました。資本主義体制下においては貧富の差が広がらざるを得ない。だから、労働者達が連合して暴力革命を通じて資本主義社会を崩壊させ、プロレタリアート独裁による共産主義社会を建設する。そして、全ての生産手段を国家が所有し、その生産物を労働者達に公平に分配する社会を作ろうという目的を持ってマルクス主義は出発しました。

それで、マルクスは、「全世界の労働者よ団結せよ」、そして、「暴力革命を通じて資本主義社会を打倒しよう」。そのような主張をしました。労働者達は話し合いや妥協を通じては理想世界はなされないとし、暴力革命通じて、プロレタリア独裁による共産主義社会を建設しようと主張しました。

しかし、マルクスの予想とは違って、労働者連合はできませんでした。

第一次世界大戦が勃発した時、ヨーロッパの労働者達はお互いに連合して自分の国の為に戦いました。自分達の国民の為に戦い、自分達の政府のために戦いました。暴力革命は起こりませんでした。

マルクス主義の階級闘争理論は事実上、失敗することになりました。ここでマルクス主義者達は新しい方法を模索を始めました。事実マルクスのプロレタリア革命は詐欺でした。国際労働者達が連合してプロレタリア革命通じて共産主義革命が起こったことは人類歴史上一度もありません。

共産主義宗主国蘇聯(ソ連)を例に取れば、労働者達の暴力革命を通じて蘇聯が建設されたのじゃなくて、ロシア社会民主主義労働党のボルシェビキ派が政権を取った後に、社会主義革命を主導しました。労働者達が主導したんじゃなくて、上から政権を通じて主導しました。そして、共産主義蘇聯(ソ連)が建てられました。

中国共産党の例も同じです。毛澤東(もうたくとう)が蒋介石(しょうかいせき)と権力闘争をして、追い回して共産党を拡散させました。そして、最後、蒋介石政府を追い出して中国共産党政権を立てました。文化革命を通じて共産主義国家を作りました。8千万人が犠牲になりました。

ベトナムの場合を見ても、共産主義ベトナム独立同盟会が自由民主主義南ベトナムとの戦争において勝ちます。彼らは戦争を通じて共産主義国家を立てました。

大韓民国も同じです。日本から解放を受けた後に、蘇聯共産主義が入ってきて、金日成(キムイルソン)を手先として立てて、北韓に朝鮮民主主義人民共和国を立てるようになり、南側にアメリカが入ってきて自由民主主義国家を立てるようになります。

こういう例を見ても共産主義国家においてはプロレタリア暴力革命を通じて共産主義社会を建設する例は一つもありません。全て上から政権を掌握した後に、彼らが革命を主導して共産主義国家を建設するようになったのです。

蘇聯(ソ連)共産主義が登場する時をもう一度見てみましょう。1917年政権を掌握したボルシェビキ派がロシアを倒し社会主義革命を起こします。それで人類最初の共産主義国家が登場するようになります。それでこの革命をボルシェビキ革命と言います。

ボルシェビキ革命の後、強力な中央統制経済政策を実施します。それで一糸不乱な経済政策が成されます。初期には成長の主軸となる安い原料、そして効率的な労働力、計画的な集中投資により、急激に戦後、蘇聯はアメリカに次ぐ産業国家大国として成長します。それで共産主義の宗主国として世界赤化(せっか)の先頭に立ちます。

しかし、この蘇聯共産主義が始まって74年後の1991年ソビエト聯邦は自滅します。その理由は蘇聯の経済崩壊でした。1985年ゴルバチョフ執権の時に経済成長率は20年間継続して下落(げらく)して来ました。

その理由は、アメリカ・ヨーロッパとの軍備競争によりGNPの20%が軍備競争に費やされました。それに耐える事が出来ず、経済がだんだん沈没してきました。このような過大な軍事支出により、1991年には経済はマイナス成長しました。

ここにアメリカの第40代大統領レーガン政権のSDI政策という戦略防衛政策と言うんですけれども、蘇聯から飛んでくる核ミサイルを太平洋上においてレザービームも通じて全て落としてしまう、遮断出してしまうという防衛政策ですけれども、アメリカのレーガン行政府がそれを採択したのです。

それで莫大な軍事費を使っても、核対決においてアメリカに勝つことができず、蘇聯はアメリカとの核対決を放棄し、ゴルバチョフはペレストロイカという改革開放政策を通じて、蘇聯を再び生き返らせようと努力をたくさんしました。そして市場開放しました。

市場開放と共に、自由の風が吹き始めました。そして中央支配体制が弱くなり、それによって蘇聯(ソ連)聯邦を構成していた15の共和国において独立運動が起こるようになり、市民経済は崩壊しました。

一方、アメリカではSDI政策に反対する人が多かったのです。なぜならば多くの軍事費が使われるという事で、特に左派指導者達が反対をしました。

しかし、当時、世界平和連合の文鮮明(ムンソンミョン)総裁がワシントン タイムズを通じて、積極的にSDI政策を支持します。そして、アメリカ内にSDI政策に賛成する雰囲気を作ります。ここで多くの資金が募金され、SDI政策が推進されました。

そして文鮮明(ムンソンミョン)牧師が世界平和連合、世界前職指導者達を率いて蘇聯(ソ連)を訪問し、ゴルバチョフに会って共産党の限界を超えるように説得しました。ゴルバチョフはそれを認め民主化自由化を選択するようになります。そしてゴルバチョフによってソビエト連邦は解体され蘇聯共産主義は終息宣言をしました。

このようにマルクスが夢見た暴力革命は失敗するようになりました。そうして共産主義は新しく戦略を修正するようになります。既存の伝統的マルクスレーニン主義は失敗に終わり、共産主義者達は戦略を修正したのでした。彼らは考えました。なぜ、マルクス主義が西洋の資本主義社会に蚕食(さんしょく)できず失敗したのか。その原因を考えるようになりました。

その結論は、マルクスの理論が西洋のキリスト教文化の障壁を崩すことができなかった。それで、共産主義革命を成功させるためには、西洋の基督教文化を攻撃しなければならない労働者農民の糾合(きゅうごう)ではなく、基督教の文化を攻撃しなければならない。暴力革命を放棄し、文化蚕食を通じて市民の意識を把握しなければならない。そうすることによって共産主義革命を成就しなければならないという結論に到達しました。

それで彼らは急進的暴力革命を転換し、隠密で、執拗で、ゆっくり、長期間にわたって文化蚕食を通じて市民の意識をだんだん洗脳していく、このような路線に変わったのです。このように文化マルクス主義が始まったのです。
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