✳️2019年2月23日(土曜日)

✳️2019年2月23日(土曜日)
✳️天基10年・天暦1月19日

🔷今朝のみ言葉🔷
朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹を覚えられた。そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当たらなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。

(新約聖書.マタイによる福音書.第21章28-19節より)

[山口聖殿ニュース]

2️⃣ おはようございます。🌄⛷🦌🧤
今まだ暗い朝です。車の音も少なく、風の音もありません。
今朝の聖句は、イエス様の言葉ですが、驚くべき呪いの言葉とも聞こえる聖句です。
いちじくの木の話なのですが、道端にあったいちじくの木をイエス様が通り過ぎるとき、その実を食べたいと思われたイエス様だったのですが、いちじくの木にその実を探しても実はありません。
するとその木に向かってイエス様は、今から後お前には実がなるな!と語ったというのです。するとたちまちいちじくの木は枯れてしまったというのです。
人はこれを、何とも自己中心でヒステリックなイエスだろうか?やはりイエスも自分勝手な人間だったのか?…などとも語れるのですが、一体その真意はどこにあったのでしょうか?
エレミヤ書の中に、次のような聖句があります。
“主は言われる、わたしが集めようと思うとき、ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはなく、根さえしぼんでいる。わたしが彼らに与えたものも、彼らを離れて、うせ去った。”(エレミヤ8/13)
今朝の聖句の鍵は、それが都に帰る朝だったということです。エルサレムの都、その都こそが、イエス様に託された神の願いを成就すべき神の大庭であるべきはずだったのですが、その都に植えられた木が、何の実りももたらすことのできない霊的には荒廃となった地となり木となってしまっていた…というのです。
エレミヤもイエス様も、イスラエルにその荒廃の姿を霊視するのです。
主の目には、見えないものがなく、隠せるものもありません。全てが見えて、予知予言が可能です。
事実、イエス様に信仰の実を捧げることのできなかったいちじくの木は枯れ、イエス様御自身も十字架に架けられ、イスラエルの国もその後消し去られてしまうのです。来るべき主の前に、信仰の実を捧げることができなければ、用意された木であったとしても、切られて火にくべられるだけだというのです。
今日、亨進二代王様も、家庭連合に対して多くの呪いとも言える言葉を語られています。しかし、その言葉を真摯に受け止めて行こうとする姿勢が彼らにはありません。軽く見ているのです。自分たちの方が神を愛する愛に優れ、より信仰に立っていると考えているのです。しかし、滅びはすぐにやってきます。根が腐ってしまっているからです。