✳️2018年10月30日(火曜日)

✳️2018年10月30日(火曜日)
✳️天基9年・天暦9月22日

🔷今朝のみ言葉🔷
兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。
(新約聖書.ローマ人への手紙.第10章1-4節より)

[山口聖殿ニュース]
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🔟 おはようございます 🍏🍁🦈🚴‍♂️
穏やかな朝です。街を行けば、公園の木々の葉っぱも赤や黄色に染まって来ました。足元に落ちた葉っぱも音を奏でてくれる季節です。
今朝の聖句はロマ書の短い一節ですが、神の義と自分の義という対比が目を引きました。
この中で、パウロは何度か“彼ら”と誰かを指しているのですが、この彼らが誰であるかというと、文脈からするとユダヤの民を指しているように見受けられます。
すなわち、神に対して熱心で、しかも深い律法の知識を持ち、自分の義を立てようとする、そのような“彼ら”です。
しかしその“彼ら”にも弱点があるというのです。すなわちその弱点が何かというと、自分の義を立てようとは努めるのですが、神の義に従おうとはしないという弱点です。その弱点にサタンが入ってしまえば、神の子を殺すにまで至ってしまうというのです。
確かに、
“キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。”
となるのですが、もし彼らユダヤの人々が、律法に熱心で自分の義を立てようとばかりするのではなく、神の義を立てることに対してより熱心であったとするならば、イエス様を殺害することなどあり得なかったのです。自分の義を立てようとするあまりに神の義に背き、それが悲劇を生んだのです。
神様は神としての義を立てるために、止むを得ずイエス様を十字架上に見捨てて、そのイエス様を仰ぎ見る者たちを救って行くという摂理をされて行かざるを得ませんでした。すべて自分の義に熱心であった者たち故に成された、苦渋の道であったというのです。
今日の私達の社会においても、自分の義を立てることに熱心な人は多いのです。多くの人々が実に自分の義に対して熱心です。しかしその熱心さが、神の義に向かわない場合には、熱心さの故の悲劇を生んでしまいかねないのです。
イエス様は宣教の初めに、
“まず神の国と神の義とを求めよ!” (マタイ6/33)
と語られました。
自分の義もいいのですが、私達に真に必要とされるものは神の義を求め立てることのできる謙虚で謙遜な信仰と姿勢ではないかと思うのです。