✳️2018年10月29日(月曜日)

✳️2018年10月29日(月曜日)
✳️天基9年・天暦9月21日

🔷今朝のみ言葉🔷
いと高き者の前に人の公義をまげ、
人の訴えをくつがえすことは、
主のよみせられないことである。
主が命じられたのでなければ、

だれが命じて、その事のなったことがあるか。
災もさいわいも、
いと高き者の口から出るではないか。
生ける人はどうしてつぶやかなければならないのか。
人は自分の罪の罰せられるのを、
つぶやくことができようか。
われわれは、自分の行いを調べ、
かつ省みて、主に帰ろう。
われわれは天にいます神にむかって、
手と共に心をもあげよう。
(旧約聖書.哀歌.第3章35-41節より)

[山口聖殿ニュース]
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🔟 おはようございます 🍏🍁🦈🚴‍♂️
10月も今日・明日・明後日の三日間を残すのみとなりました。昨日も聖日礼拝で、遠くから来られた方々と共に聖霊の役事のひと時をもって行きました。
今朝の聖句は、哀歌、いわゆるエレミヤ書の続編として知られる五つの章からなる哀歌の第3章からの一節です。
この哀歌の作者として知られるエレミヤは、南朝ユダ国がバビロニアに脅かされ捕囚に至る過程の中で、イスラエルが神に立ち返ることを預言した預言者なのですが、エレミヤの主張は聞き入れられずに、遂にはバビロン捕囚へと滅んで行くさまを見つめながら、約40年間にわたりエルサレムで預言し続けた涙の預言者です。
そのエレミヤが、ああ!という嘆きの感嘆詞を冒頭にしながら語った言葉が哀歌なのですが、今朝の聖句でもそのエレミヤの言葉は私達に何かを語りかけます。
この中でエレミヤが語りたいことは何かと言えば、アッシリアやバビロニアの侵攻によって国が滅びかかる中、イスラエルの君達は様々な対策を考慮しその危機に備えようとするのですが、ある者はその政策を批判したり、あるいは互いを罵り合ったりする過程において、エレミヤは、そのような愚かさを指摘しながら、
“災も幸いも、いと高き者の口から出るではないか。”
と語り、
“生ける人はどうしてつぶやかなければならないのか。人は自分の罪の罰せられるのを、つぶやくことができようか。”
と語るのです。
そしてさらに、
“われわれは、自分の行いを調べ、
かつ省みて、主に帰ろう。”
と語り、すなわち人の批判よりも己の行いを反省することを勧めながら、反省し悔い改める心を持って神に立ち返る道を選ぼう!と訴えるのです。
今朝のエレミヤの最後の言葉にある、
“われわれは天にいます神にむかって、
手と共に心をもあげよう。”
という言葉は、私達にとっても大切な言葉です。
聖霊の役事の世界とは、天にいます神にむかって手と共に心をも捧げる世界です。
天にむかって捧げた私達の心は、聖霊が宿る清き神の宮となるのです。その神の宮は守られなければならないし、清められなければならないし、高められて行かなければならないのです。
従ってその心情の世界は、いたずらに人への批判や冒涜へと向かう世界ではありません。
神の霊が水の面を覆っていた創世記の世界のように、神の霊によって満たされた私達となって生きて行きたいものだと思うのです。