✳️2018年10月10日(水曜日)

✳️2018年10月10日(水曜日)
✳️天基9年・天暦9月2日

🔷今朝のみ言葉🔷
エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。

[彼らは水の動くのを待っていたのである。それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時真っ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。]さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいか」と言われた。この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。
その日は安息日であった。
(新約聖書.ヨハネによる福音書.第5章2-9節より)

[山口聖殿ニュース]

🔟 おはようございます 🍏🍁🦈🚴‍♂️
外まだ暗い朝ですが、そぼ降る雨が屋根のトタンを叩いています。鳥の鳴き声もなく、静まり返ったこの朝に、咳き込む父の声だけが響いて消えて行きます。
この朝に聖書を開けば、思いがけないヨハネ伝のこの聖句に目が止まりました。ベテスダの池の話です。この安息日に癒しの業を行なったイエス様の行いを、律法違反だ!と批判する多くのユダヤ人がいたというのです。
この時にイエス様を批判したユダヤ人には、どんな人がいたのでしょうか?その中にはイエス様の業を日頃苦々しく思っていた律法学者達がいたであろうし、あるいはベテスダの廊で癒しを求めて待ち焦がれていた数多くの病に侵されていた他の人達もいたことでしょう。
さらに興味深いのは、「治りたいのか?」というイエス様の言葉です。癒された人は、もちろん治りたい一心でベテスダの廊の池を唯一の頼りとしてそこに留まり続けていたに違いありません。患い始めた直後からそこに留まり続けたとすれば、38年間です。気の遠くなる歳月を、池の水が動く一瞬を待ち続けたというのです。そしてたとえ動いたとしても、いつも人に先を越されて、惨めな思いのみを抱え込んでいた病の人であったのです。
そんな治りたい一心でそこにいる者であることを一目で察しながらもイエス様は、あえて「治りたいのか?」と問うのです。シビれる話です。ある種病の人からしてみれば、屈辱的な言葉でもあるのです。
しかしその病の人は正直にイエス様に語るのです。自分は治りたいけれども、自分は人に負けて池までたどり着けない…と。その言葉を聞いた次の瞬間、イエス様は聖霊の役事をその病の人に施したというのです。安息日に癒しの業を行う批判の矛先が自分に向かって来ることをあえて知りながらも…。
この中から、私達は何を学び何を教訓とすべきでしょうか?
ベテスダの廊の池、そこに群がる数多くの病人や不具者達、そして38年間を待ち続けた病の人…。そこには数多くの示唆があるのです。
イザヤ書の9章2節には、
“暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。
暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。”
とあります。
イエス様の光を、光として捉えなければならないユダヤ人達の群像がそこにはあったに違いありません。しかし結果的にユダヤ人達は、その光を正しく見つめ捉えることができませんでした。
教訓と課題は私達の前にもあります。ある意味で、私達もまたベテスダの廊の周りに佇む病の人達でもあるのです。彼は38年間かもしれないのですが、ある意味では皆、生まれてこのかた病の人でもあるのです。
イエス様が「治りたいのか?」と問う時に、私達は何と答えるべきでしょうか?
素直に正直に、「治りたいです。あなたこそ私達の救いであり光です!」と語るとするならば、私達の上にも奇跡的な聖霊の役事が施されるに違いありません。